2017年9月7日木曜日

いまさら感ありますが…

今月のスケジュール、前の記事で書きました通り、よろしくお願いします。ますます身動きできなくなる状況の中で、なんとか予定を全うしたいと思います。そういう訳で、10月以降はぐっと減ります。少しは復活できるのがいつ頃になるかは、まったく予想がつきません…、いや、別に閉店セールをかましてるわけではありません!!
というわけで、今後ますます、今までのような、怒濤のスケジュールの中で発見したり失敗したり成功したり…、というもはや、今考えると牧歌的とさえ見える状況とはほど遠くなり、逆の視点で発見して行かなければならないなあ。これは、まだなんとか健康を保った状態でそんなこと言ってるのであって、恵まれてるのかもしれない。たとえば、本気で羽黒山かどこかで瞑想したりして何かにアプローチしたいとさえも考える今日この頃です。
具体的には、今月の「酔狂即狂番外編」これは今までやってきた身体表現とのコラボレーションから一線を画し、100分ぐらいの枠でぶっ通し、即興、というのを目指したい。深く潜りたいのです。
そこで、あーでもないこーでもない、と自問自答を繰り返してるのですが、幸い、ここ一年ほど芝崎さんの舞踏と自動運動のワークショップに関わらせてもらっているので、考える材料にはこと欠かない。まあ、そこで今更何を、と言われるかもしれないが、

オドリにはオトがある

ということについて考えてみたい。
当然、オドリには呼吸のオト、衣擦れのオト、足音、空気を切るオト、いろいろな物理的なオトがあるけど、音にならないオトもある。という、いわば当然のこと、ですが、これを忘れていたあるいは軽視していたかもしれない。だからこそ協働することができるのではないかとも考えられるのに。
逆に、演奏者には動きがあるし色も形もある。色や形、その動きとオトはどこかで線を引けるかというと?これがなかなか難しい。踊り手や生け花は視覚、音楽は聴覚担当、なんていう単純なことではないのです。源初の感覚、触覚のようなものが特殊に発達して聴覚や視覚になった。しかし根本はつながっている。
一挙手一投足にオトを当てはめるなんてことではなく、むしろ、自由。自由に発展する。それをひとりの人が五感で感じ取り、何か像を結ぶ。いや、像を結ぶなんて生易しいものではない。伝染する。取り込まれる。一挙手一投足とオトが勝手に人を取り込んでいく。肢体の動きとオトの動きがどっちがどっちなんだか、なにがなんだか分からなくなる。で、自分もおどる…、というような?
鑑賞する。なんてイヤな言葉なんだろう。
一緒に火にくべられる、という状況を、鑑賞なんて澄ましていられるか。
まとまりがなくなってきました。
とにかく、なぜオドリオトで即興が可能な時もある、のかというと、お互いオトであり動きであり色と形であるということ、につきると思います。

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