2016年12月6日火曜日

冬の飲み物

寒い日は(このところちと暖かい日が続いてますが)、コーヒーは熱くて薄いのが美味しいね!ぬるいと全然おいしくないんだけど。
と思って、結構究極の薄いコーヒー、ということになると、あるところからもうコーヒーだか、麦茶だかわからないような、しかし、別種のおいしさがある、というような飲料になりました。これは、相当安いよ…!うーん、でも普通にコーヒー飲みたくなってきた!

演奏も、究極に音量小さくするとか、時間的な密度を薄めるという意味で、テンポ遅くするとか(その亜種で、音量小さくてテンポが速い、とか、爆音でテンポ遅い、なども考えられる)すると、いわゆる音楽と言うところから離れた新しい美しさを発見できる。でも、普通に音楽やりたくなる、のかなあ??

というわけで、普通のコーヒーを飲んでみると、また今度は普通のなかにも新しい味わいが発見できた。いろいろなものを薄めてみると面白いかもなあ。



ところで、ちょっと前に考えていたことを思い出した。

2016年11月25日金曜日


雑記


勘定…、ではなく、感情とよばれるやっかいなものについて、ふとおもったこと。

足がつる、こと、寝不足の時などたまに経験しますが、あれは、身体を動かす時に収縮させる筋肉の反対側の筋肉は瞬時に弛緩させないといけないのですが、べ つに意識することなく、自動的にそうなるんだけど、これはすべて脳が指令だしてるということですよね。自動的にそう見えるんだけど、脳が命令出してるけど それは意識にはのぼらないというだけ。
それがエラー起こすと、つる、という症状になってしまう。

そのような様式をもって、脳の原始的部分、運動を司る部分はほとんど不随意の領域になっていて、ある命令を出すとそれを自動的に各部に分解して的確に指令を出してくれる。命令出さなくても内臓の動きや反射的動作などは起きる。

感情や思考を司る部分も、運動を司る原始的部分のフォーマットから進化しており、似た手順で動いてるんじゃなかろうか?

憂鬱な気分でからだを動かす気が起きない、という時とは、感情がつっているような状態なのではなかろうか。感情がつる、というのが良く分かりませんが…。

とにかく不思議なのは、感情というものがどこから来るのか。もちろん、腹の立つことが目の前にあって、という原因はあるのだが、その感情に包まれる、あのベールとはなんのためにあるのか。


…というわけで、時間をおいて考えてみるのだが、結局のところ、自分の感情をコントロールすることができたら良い なあと思うのだが、コントロールできない部分のことをさして「感情」と呼んでるのかもしれないので自己矛盾的である。フロンティアをどこまで追っていって も、一周してもとのところに来て、全面制圧できる、というものではあるまい。ただし、その感情を製造しているみなもとの、一見複雑で得体が知れないシステ ム、と、筋肉を動かすシステム、は、全く別のものではない。ほとんどおなじ原理で、自己保存のために最適化するように動いている。だから、心配はない。感 情は身体と非常に関係しており、それぞれの感情の色に応じて主に反応する身体の部位というものがある。だからといって、人間存在、自意識というものがすべ て機械式に説明できるとも思えない。無意識的な臓器の働き、筋肉の動き、五感、感情、思考、などは大きく見れば同じグループにあり、それとはまったく違っ たところに、何か、がある…、という。

とりあえずの結論としては、嬉しければ笑い、悲しければ泣く。身体にそうさせておく。



…ということなのだが、「忘却」という作用が、筋肉で力を出すとき反対側の筋肉をすばやく脱力させるというのに似てるのではないか?と思いついた(なにしろ、上の文章の詳細はすっかり忘れていた)。以下、いつものことながら、偽科学なのですが、実感したことから書いていく上で、その裏側のシステムまで連想してしまうので、ただひたすら書き付けてるだけなので、ご了承下さい。
あることを考えるとき、その他のことを一時的に忘れるという事ができないと深く考えることはできない。お湯なんか沸騰しまくってたり、いろいろあるけど、それはしょうがないことなのでタイマーなどの道具を使うことで安心してすっかり忘れることで最大限の思考力を発揮できる。とはいえ、生きていると心配事などいろいろあるのでタイマーでは済まないことも多々ある。忘れるという機能がうまく働かなくなってくると精神的に「つる」のかもしれない。なので日々のストレスをアルコールで発散、というのも、アルコール分が脳に働きかけて一方的に忘れる作用を高めてくれるからなのである。記憶力を高めようと努力しつつ、忘れる作用をアルコールなどの科学物質に依存している。アクセルを踏みながらブレーキをかけている、と考えられる。そんな無理を繰り返すうち、やはり、生身の人間の精神は荒廃していくのかも…。
アルコールはさておき、意識的に考えるという行為や五感というものはとても限定されたものであり、もっとおおきな働きを人間は無意識的に行っている。というか、人間以外は(たぶん)ほとんどそれだけなので、人間がまったく考えなくなっても、地球の運行には支障はない。その母なる大自然としっかりリンクしている、あるいは大自然の一部ともいえる人間の無意識部分は「私」が何も考えなくても瞬間的に反対側の筋肉を緩めてくれるし、ものを食べればいちいち唾液を出してくれる。そのように考えると、忘れるという働きも、無意識部分から指令が出てるんではないかと考えられる。 なので、わざわざ「忘れるテクニック」を磨く必要もないし、アル中になる必要もない。自然に帰れ、でありますが、もうここまでむちゃくちゃになってるので、それもなかなかむずかしい。いまの環境や生活のなかで自然とリンクした無意識部分との交流を正常化するにはどうすれば良いのか…。
そこに、伝統的に世界中で行われている儀式や歌舞音曲の類い、呪文、シャーマン、など、ありとあらゆる非科学的とされてきた事柄が、じつは理にかなっていた部分も持っていたんじゃないか?となってくる。でしょ?と、私は思います。で、肝心の「即興演奏」は、伝統からいったん切り離されてしまって自然との通路を閉ざされてしまった人間に残された、微かな本能からのメッセージなんではないかな〜、と思ったりするんですが。もちろん、民謡、クラシック、ポップス、テクノ、なんでもいいんですけど、それぞれにいろいろな「文化」がこびりついてるでしょ。そこから「文化」をはぎ落とす、という方向性もアリなんじゃないかと思うんですけど、どうでしょうか。もちろん、いろいろなスタイルとかイディオム、型、形式、楽器の構造、いろいろな文化あるけど、それらを否定して使わない、という道もひとつあり、もうひとつはそれらの要素を吟味して、本来の、そこに仕込んである人間と自然(意識と無意識)を橋渡しするための仕掛け、を嗅ぎ付けて(かなり難しいこともあるけど)そこまで戻って再起動する。

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