2016年11月25日金曜日

雑記

勘定…、ではなく、感情とよばれるやっかいなものについて、ふとおもったこと。

足がつる、こと、寝不足の時などたまに経験しますが、あれは、身体を動かす時に収縮させる筋肉の反対側の筋肉は瞬時に弛緩させないといけないのですが、べつに意識することなく、自動的にそうなるんだけど、これはすべて脳が指令だしてるということですよね。自動的にそう見えるんだけど、脳が命令出してるけどそれは意識にはのぼらないというだけ。
それがエラー起こすと、つる、という症状になってしまう。

そのような様式をもって、脳の原始的部分、運動を司る部分はほとんど不随意の領域になっていて、ある命令を出すとそれを自動的に各部に分解して的確に指令を出してくれる。命令出さなくても内臓の動きや反射的動作などは起きる。

感情や思考を司る部分も、運動を司る原始的部分のフォーマットから進化しており、似た手順で動いてるんじゃなかろうか?

憂鬱な気分でからだを動かす気が起きない、という時とは、感情がつっているような状態なのではなかろうか。感情がつる、というのが良く分かりませんが…。

とにかく不思議なのは、感情というものがどこから来るのか。もちろん、腹の立つことが目の前にあって、という原因はあるのだが、その感情に包まれる、あのベールとはなんのためにあるのか。


…というわけで、時間をおいて考えてみるのだが、結局のところ、自分の感情をコントロールすることができたら良いなあと思うのだが、コントロールできない部分のことをさして「感情」と呼んでるのかもしれないので自己矛盾的である。フロンティアをどこまで追っていっても、一周してもとのところに来て、全面制圧できる、というものではあるまい。ただし、その感情を製造しているみなもとの、一見複雑で得体が知れないシステム、と、筋肉を動かすシステム、は、全く別のものではない。ほとんどおなじ原理で、自己保存のために最適化するように動いている。だから、心配はない。感情は身体と非常に関係しており、それぞれの感情の色に応じて主に反応する身体の部位というものがある。だからといって、人間存在、自意識というものがすべて機械式に説明できるとも思えない。無意識的な臓器の働き、筋肉の動き、五感、感情、思考、などは大きく見れば同じグループにあり、それとはまったく違ったところに、何か、がある…、という。

とりあえずの結論としては、嬉しければ笑い、悲しければ泣く。身体にそうさせておく。

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