2015年10月6日火曜日

限界芸術

 「限界芸術論」鶴見俊輔
を8月に読んでFacebookに投稿した文章。こんなこと書いたの忘れてました。
fbはもう、すぐに忘却の彼方なので、ちょっとこっちに避難させておき、いずれまたこの本読み直すので、また気づいたこと書いたりしようっと
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「限界芸術論」部分的に気になる部分を読み返しつついろいろ考えつつ、冷酒をのんでますが、冷酒が旨いです!なんかスルスルはいってくるな!
いや、もうあまり考えがまとまらないし、眠いのですが、ん〜、即興演奏も限界芸術ぽいとことあるね。本書では芸術は楽しい記号である、と最初に宣言し、そ の後、「純粋」「大衆」「限界」の3分類をしてます。純粋芸術は専門家が作り専門的享受者を持つ。大衆芸術は専門家が企業家と共同して非専門的享受者に向 けて作る。限界芸術とは非専門⇒非専門。即興演奏はどこに入るか考えると、純粋芸術ではないね。アカデミズムでもないし、ちょっと違いますね。だいたい、 純粋芸術な人は即興に対してある種身構えるところあるように思う。(あなたがやっていることは再現性がないね、といわれたことあり。ま、その通りですよ。 それは、豆腐屋に、あなたのつくっているものは柔らかいね、といってるにひとしい)まあ、専門的享受者しかいない、というところはこれから大いに改革して いくとして、で、大衆芸術ではない…儲からないから。これも改善したい…。とすると、消去法で限界芸術いり。まあ、キッパリと3分類できるわけじゃないけど。
ちなみに、「限界」というワードはちょっと誤解招きやすいですね。「境界芸術」「生活芸術」でも違うしな〜。入会地、市街化調整区域、でもないな。グレーゾーン、じゃないし、なあ。語彙が。もうない。marginalっていう語感がうまく訳する言葉が思いつかないです。
私らが行っている「ワークショップ」は、それこそバックグラウンドの違うヒトが一堂に会して音を出し、面白がる(うまくいったらですけど)だけのような場 所なので、現代風限界芸術とも思える。そうすると、「聴く人よりやる人が多い」等の批判もむしろ立場がハッキリするので良いとも言える。ちょっと痛々しい か??
いやほんと、ゴカイを恐れずいえば即興演奏なんて、だれでも出来ますからね。これは良い意味でね。ホント、まったくのシロートの人が来るとちょっと脅威ですよ。すべて持ってかれたりして。まあ、だいぶなれましたが(?)。柳の下に(以下略)
で、その限界芸術はあらゆる芸術の感性の母体となっている、というのが「限界芸術論」の主旨のひとつなのですが、まさに、即興演奏はあらゆる音楽体験の母体だと思います。おっかさん!
「楽しい記号」たる芸術の母体である即興音楽はもっと楽しくなければならない、かもね〜。ていうか、楽しいのでこれほど続いてんだろうね。ま、そのへんハッキリしてくると展開も違ってくるでしょうね。



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