2015年10月14日水曜日

不安、案ずる(雑記)

「身体(からだ)の言い分」 内田 樹 (著), 池上 六朗 (著)毎日新聞社, 2005
 

という本を時々読み返しています。折りにふれてヒントになるようなことが平易に展開されていて、とても役に立って(?)ます。
で、もう何度も読んでるのですが、毎回発見があります。あまり記憶力も理解力もないからかもしれませんが。
今回読み返してちょっとひっかかったというか、ほんとにさらりと書いてあるだけなんだけど

「池上 頭、脳というのは不安だけを感じるものらしくて(以下略)」


こんだけなんですけど、えっそうなの?という感じ。そんな説初めて聞いたような。でも、そうかもしれない!という。


思考という脳内の現象というのは多分、不安感と表裏一体、なのかもしれん。または、漠然とした脳の働きに、「思考」とか「心配」とか名付けてあたかも実体があるように感じているのかもしれません。不安感を減じるケミカルな手段、アルコールとかですが、これらは思考にも変質、あるいは低下させる、ということからも、思考と不安は表裏の関係にあるように思われる。

「案じる」という日本語がありますが、これは、「一計を案じる」という時は思考、「身を案じる」というときは心配、ということですが、その「案」という字はどうも「つくえ」のことのようで、白川静の本を図書館に引きにいかないと詳しいこと分からないのですが、つくえで考えることのようです。とにかく、この一字が思考にも不安にも用いられている。


しかし、そもそも 「頭、脳というのは不安だけを感じる」もの、というのはどこから出てきた話なのだろうか。

それにしても人間の情動、思考、意識、というものはとらえどころがなく、ラベルとしての言葉に逆に束縛されてしまうけど、身体全体としてとらえたとき、ちょっとそこから抜け出して一息つけるんじゃないかなと思います。その橋渡しとして太極拳とか武道の型とか瞑想、いろいろと先人は方便をみつけてきたということなのか。音楽、即興演奏、というものも有効な気がする。

 

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