2015年4月23日木曜日

言語学

「寝ながら学べる構造主義」とても面白く、部分的には繰り返し、読んでいます。いままで、ソシュールもラカンも読んだことないのですが、じょじょに、なんだか分かったような気にさせられています。
名付けられることによってそのものは意味を確定するのであって、「名前を持たないもの」は存在しない、というのがソシュールの命題です。「命題」であってんのかな?propositionを西周が「命題」と訳語をあてたそうです。天才ですね。西周は当時日本に存在しなかった概念に訳語を次々にあてていきました。「自由」すらなかった。ま、これは本当にそういう概念が発達してはいなかったからしょうがないとして。
例えば、「ジャズなんてなんでも同じに聞こえる」ってひとは少なくない(っていうか9割がたそうかも)ですが、たとえばその人が「モダンジャズ」「アシッドジャズ」「マイルス」「コルトレーン」「サッチモ」「デキシー」etc、という語彙を持っていないから、一緒くたに聞こえてしまうのだ、とも考えられる。もちろん、このようなジャンル名とかが直接的にその聞こえてきた音楽を分節するわけではなく、プレ言語というか?ニオイみたいな?イメージというかなんというか、純粋経験って言うのは違うのかな。ともかく、すごく言葉ににた構造を持つ何かが音楽を理解させてくれているのではなかろうか。その場合、音楽自体というものに実体があるのかどうか、ということが問われるかもしれませんが、音楽自体に実体はある。と、断言できます。(つづく)(もうねむくて限界です)


(つづき)
もう眠くて、音楽に実体があると書いてしまいましたが、よく考えるとわからなくなります。実体とは何だろう。身体への影響は少なくともあるから、その現象を指して実体といって良いのかもしれない。
蕎麦屋等でジャズがかかっているというのは今ではナンにも珍しいことではなくなってしまいましたが、私はあ、、、ビルエヴァンス、、、これは、ケニードーハム??、、これは、、知らないジャズギターだけどジムホールでこんなのあるのかな??あ、こういうヴォイシング、、、タンギングが速い!、、ベースがものすごく遅い、、、等々、内心でツッコミを入れているので蕎麦の味は、わからなくなります。なので、ノーBGMの店を愛好する音楽家は多いはず。 ということで、ツッコミはかならず「ことば」が関わってくる。もちろん言葉を知らなくても鑑賞は可能ですが、その捉え方はまったく違うものになるのではないか。
私が初めて「ジャズ」として認識して、なおかつ繰り返し聞いたために聴いた時の印象が残っている(FM放送をカセットテープに「エアチェック」した…)ものとして、「Three or Four Shades of Blues / Charles Mingus」(1977)があります。多分、国内リリースされてすぐに新譜としてFMでかかったんじゃないかと思いますが。名盤「Changes」と「Cumbia and Jazz Fusion」にはさまって制作されたこの作品から、中学生の私はどういうわけかジョンスコの参加している4曲めと5曲目をたまたま「エアチェック」してわけも分からず繰り返し聞いたのです。
この2曲はその頃まとめて聞いた以外は最近まで30年一度も聞いたことがありませんでしたが、2年ほど前、たまたまネットでめぐりあい聞き直すという幸運に恵まれました。中学生の私にとってこの音楽は不気味で「前衛的」というか(そういうコトバもまだ持っていない) 正体不明の音楽に聞こえた、はず、だったのですが、今聞くと、実にスイングしているというか、「普通」のすぐれた録音であり、ジョージコールマンも精彩を放っており、ジャックウォルラスはミンガスの前作「Changes」と共通している唯一の演奏者だと思うのですが、前作の芳香を豊かににおわせており、まわりのメンバーがすっかり交代している中で漂ってくるその芳香は、実に新鮮です。美しい新婦さんがお色直しして出てきた時のどよめきのような心の動きを感じさせる…、というわけで、確かに聞き覚えのある音楽なんだけど、まったく違う印象、違う深度で聴取される。ただ、まったく予備知識無く聞いた中学の頃の心境を一生懸命思い出すと、なにか、暗黒の中をのたうち回る太い植物のツルのような、心象風景を思い描いたなあ、と思い出したが、この図はこれでなかなかシュールだ。
もちろん、これを、単に「コトバ」が増えた、という私の学習したことに原因を求めるのはちょっとラフすぎる気もする。私からの言葉のアウトプットについて考えると、印象を言葉に置き換えるそのときにも掬い上げられることの無い想念が、私の貧弱な文章で読み取れるような意味とは隔絶したところに存在している。 「お色直し」も「のたうち回るツル」も、受け手によってはまったく違った印象を持たれるであろうし。また、現在の私も中学の時の私も、いちいち浮かんでくる想念や印象というものをいちいち言語化して意識に浮かび上がらせていたわけでもない。しかし、やはりコトバがなければ聴取したものをなにかしらの表現あるいは意味としてとらえることはできないのではないか…。
そこで思い当たるのは国語の問題。私は日本語でしか考えることはできません。「ビル・エヴァンス」もBillEvanceとは発音していない。棒読みである。「えばんす〜」と心の中でも言っている。
ん〜、ずいぶん前に「日記」でこのようなことを書いた気がするけど。
とにかく、決定的な証拠を実感するには至ってはいない。多分先人がこのようなことはいくらでも考察しているに違いないのだが、自分で拙い考えでも重ねていくしかない気がする。本を読まなくても街に出て誰かとセッションすればいろいろな疑問や答えは消化しきれないほど出てくるわけで。別にひとりでも、練習を録音して聞いてみるとこれまたいろいろなアイディアというか思いというかが湧いてくる。すぐ忘れてしまうんだけど。
現実的には、聴き手に「コトバ」を「補給」してあげればその聴取理解能力は直ちに高まり、毎日のようにライブに通ってくれる…ことが起こりうるんであればもう毒を盛るように言葉を花束に隠しあるいはサブリミナル効果、カクテルパーティー効果、プラシーボ効果、なんでも手段を選ばず、ですが、どうなんでしょう。まあ、確かに、レコード屋の棚がなんにも分類されてなかったら売れ行きは激減でしょうね。まずはジャンルやシーンを立ち上げることが売るための要諦ですから、音楽に限らず。ラーメンブームですが、やはりこうなるためには分類や系統というものが重要な働きをする。そういうのがキライであるいは苦手でなるべく言葉に囚われないように逃避する人に限ってインプロヴィゼーションにたどり着くのかなあ…。じゃ、ダメ、か〜。
いや、気を取り直し。とにかく、ジャンル分けとかウリ文句に買い言葉、苦手で避ける傾向にある人でも、聴取の際、言語の働きのごく原初的な心の動きがその理解を成立させているのではないか。聞こえてきた音楽をジャンル分けするとかいう段階のもっと以前の段階です。

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