2014年4月11日金曜日

と、まあ、なんとなくどうでも良いことを考えてしまった。
でも、こういうことを考えるのが好きなのだろうな。

で、さらに、黄金比の横長の長方形のフレームはどう頑張っても意識することはできなかった。と、さらに、丸いフレームも確認できない。視覚にフレームというものはない。境界がぼけている、ということでもないと思われる。なぜなら、その境界の外側は「存在しない」からだ。存在しないものを境界線で区切ることはできない。

…一体私が何を不思議がっているのか、伝わってないかもしれないけど、自分でも何が問題なのかよく分からない。写真と実体験との違いはその基本的条件からしてすごく大きいということは感じる。

ところで、視覚ではなく、私が馴染みの深い音楽などを含む聴覚の世界においてはどうだろう。写真と対応するのは録音ということになりますね。そのワクを問題にするとすれば、視覚における視野に対応する概念はなんだろうか。周波数帯だろうか。また、時間というのも考えられますが、これは視覚でも存在することだし、動画と静止画の違いというのもまた興味深いけど、それはおいといて、周波数帯、ん〜、ちょっと違うなあ。感覚できない周波数帯は視覚においても赤外線とか紫外線とか分かんないわけだからなあ。で、聴覚の場合は前後左右の音が聞こえちゃうので3次元的な方向性でのボーダーはない。しかし、全ての音が常に聞こえてるかと言うとまったくそんなことは無くて、ずーっと鳴ってるのに聞こえなかった音が急に意識にのぼったとたん、気になってしょうがなくなったりってことはよく経験するところである。

即興演奏も4人以上の演奏者によるものは聴取が難しくなることが多い、とわりと良く言われるが、その辺に関係してくるのかもしれない。 多くの音源を使って演奏する場合は能率よく全てが聞こえるように効果的に配置してやる必要が生じてくる。これをコンポジションというのかもしれない。また、ソロでも、前後の流れによっては、聞こえてはいるが理解、あるいは解釈ができない、ということもあり、その場合もコンポジションされる必要がある。

視野においても、視野のすべてが無条件に常に意識されているということは無く、一点に気をとられると見えてても見えなくなってしまうことがあるから、単純にこれは視野に対応する概念ではないのかもしれないが。


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