2013年8月26日月曜日

俺のプロフィール

チラシ作っている最中にプロフィールが長すぎると感じる。
どうも、履歴書じみており、聞き手が求めている情報ではない。
また、もういいトシなのに未だに「◯◯氏に師事」というのもいただけない。もちろん、私は大感謝していますが。
ということで、一行で自分のやっている事とかやりたい事、ポリシー?聞き手にとっての関心事であり聴取の方向を誤らせない情報。ひらたくいえばキャッチコピーですね。
キャッチコピーというと、だいたい俺は苦手なのだ。一行やそこらでどうやってこの逡巡する思考を伝えられるのか。多くの大事なものを削ぎ落とさなければならないのか。
だいたい、まず,コピーライターという人種が苦手である。コピーライターはほとんど魔術師と感じる。
そして、しょうがなくキャッチコピーを書くと、自分の場合おおかた軽薄な感じになり、大きな悔いを残す。
言葉=マントラとは,おそろしいものですね。こうやってブログやらツイッターを書き散らかしているけど、大丈夫なのでしょうか。
しかし、音楽でもそうですが、音符を詰め込むのが最上とは限らない。尺八などそうですね。一音上仏という言葉通り、寸鉄、一言居士。それがベスト。またはデジュリドゥーや熱帯雨林の音場のような、部分が全体、全体が部分、のようなフラクタルな世界。
そうですね。フラクタル言語。これを習得すれば良い。どうやって???
ひとり、ミュージシャンで、自分の演奏の事,人とどんなに違ってても自分の表現を考え抜き、また大事にしている男がいて、 彼は自分の事を「チューバ1本背たろうて疾走する旅のチューバ吹き」と書いていた。この凝縮度は凄い。楽器名は2度出てくるが、この一文では具体的に彼がどんなジャンルで演奏しているのかとか分からない。しかし、そんな事はどうでも良いのである。彼が自分の活動をある時はクールに客観的に見つめ、ある時は主観的にワイルドにふるまう。そんな研鑽の中から出てきた言葉であろう。それも、やはり世界を相手に、またはより身近な世界での断絶とか、楽器の特異性や難しさ、いろいろな条件から鍛えられて来た事が想像される。
 俺の場合はそういう努力をあまりせずに来た。つねに以心伝心の理解者に恵まれ、共通言語にして通す、というような場面に立たされるような事が少なかったように思える。そういうある種のぬるま湯的日本の状況として、わりと多いのではないかとも思われるが。
「演奏活動を通して即興や特殊奏法を中心に探求するクレージーサックス奏者」
なんだか説明的である。やはり履歴書。役所に出すようなテイストである。
 SXQの2枚目のCDが出たときの田中啓文氏のコメントなど、
「サックスサックスサックスサックス……どこを切ってもサックスばかり。サックスの音の洪水を頭から浴びたければ本作を聴くことだ。馬鹿よ、まさにサックス馬鹿たちよ!」
である。温度というものが違う。具体的な説明は一切無い。
思うに、自分は慎重なのだ。言葉があまりに温度を帯びてしまう事が。演奏でいくらでもアツく、あるいはツメタく、なればよいので、言葉というものに対しての信頼が無い。だから一種の詩的表現を避けてしまう傾向にあり、無理してそれが爆発してしまうとこれもまた見るも無惨、という結果に陥ってしまう。
そして今後、どちらへ進めばいいのか。
そういう事を考えるヒマがあったら練習したほうがいいのか。きっとそうだろうと思う。考えてもどうにもならんと感じる。
「Change」
「Yes,we can!」




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