2013年7月26日金曜日

なぜだろう…

近頃は音源制作やリハーサルなどで、思考がどうも硬化しているような自覚症状がある〜!
しかし、立派なものは立派である、ということは年々身にしみておりまして、歴史を背負って行くということは時には権威主義的、封建的、保守的、な思考回路に閉ざされてしまうことになりがちであるが、歴史というのはもちろん、破壊、裏切り、も含めて変化の連続であり、古典といわれる立派なものはその中を生き残って来てエラい!よくぞ!とも思えるが、当時の価値観や見る目と現在にいたるまでのそれは当然違うので、そのエラさというのがどのようなエラさなのか、よく分からない。無伴奏チェロ組曲や浮世絵など、現在立派なものだとされているものでも当時はぞんざいに扱われていたり陽の目を見なかったりというものは多くある。当時その作者がどのような意識で作ったのか定かではないが、作品そのものには確かな力がある、ということだとしたら、大したものである。しかし、その力というのは作者は感じていたのか…?その上、音楽の場合は間に解釈して演奏するという大問題がひかえている。また、現代の世の中でバッハを超えるバロック調の音楽を作曲したとして、それは、どうなんだろう?パロディ以上のものになるのだろうか…?
等々、芸術史的な問題に詳しい方にはすでに解決済な話ばかりなんだろうと思いますが。
別に学術的に消去法でなにか作っているわけでもないので、ぜんぜんどうでも良いんだけど、結局は自由な精神というのは勝ち取るものなんだな。何に対して戦って勝ち取るのか、というと一番大きな障害は自分なんだな。自分で規範意識を作り出している。もちろんそれ無しではなにかを測る物差しがないので途方にくれてしまうわけだけど、それ自体がすでに束縛なんだよな〜。しかしながら、歳とって来たから束縛されていると言うわけでもないのだな。これが。若い頃も思いっきり自縄自縛だったのだが、それを意識することさえもできなかったのだ。そのうえ、

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